カーニヴァル化する社会
弟の本棚からぱちってきた。
- 作者: 鈴木謙介
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2005/05/19
- メディア: 新書
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チャーリーが指摘する「カーニヴァル化する社会」のカーニヴァルとは、古典的な祝祭や収穫祭などのアレではなく、今日インターネット上などで頻繁に開催される、つまりは、
祭りだワッショイ!!
\\ 祭りだワッショイ!!//
+ + \\ 祭りだワッショイ!!/+
+
. + /■\ /■\ /■\ +
( ´∀`∩(´∀`∩)( ´∀`)
+ (( (つ ノ(つ 丿(つ つ )) +
ヽ ( ノ ( ヽノ ) ) )
(_)し' し(_) (_)_)
コレである。
イラク人質事件とか、北朝鮮拉致被害者家族会へのバッシングとか、2002年ワールドカップ騒ぎ、2003年阪神優勝騒ぎ、湘南ゴミ拾いオフ、放火によって消失した折鶴を広島平和記念公園に届ける折鶴オフ等々、枚挙に暇がない。
私の個人的な記憶になるが、昔は白血病克服への協力運動、連続猫殺傷事件犯人探し騒動等、近年では鳥取砂丘落書きの犯人が2ちゃんねらーにより30分もたたずに発見される騒動、アベしちゃう、アサヒる騒動とか、とにかく枚挙に暇がない。
こういった祭りに、旧体制的なマスコミや知識人が政治活動業界の方々が、なんかKYなネタスレにマジレスカコワルイな反応をして、失笑を買うこともしばしばである。
著者は、これらの活動は右派でも左派でもなく、祭りの「ネタ」であり、人々は「感動」を求めて「ネタ消費」しているのだとしている。
こういったことの背景には、「分断した自己イメージ」と「データベース化する人間関係」が関係していると指摘してある。
多くの家庭が「家業」をもたず、子どもの生活に貨幣の提供以上のことをなしえない時代。
かつて日本人は「家庭」から「学校」を経由して「会社」へと、所属する共同体を変遷させてきた。「社会に出る」という表現は「会社に入る」ということを意味した。しかし、今日その前提は経済的にも精神的にも崩れつつある。
こういった現代では自己責任論が蔓延し、拠って立つモチベーションとして「自分のやりたいこと」が過剰に重要視される。
データベース化した人間関係は、人間関係を縦ではなく横に分類し、現代人は絶えずデータベースに自己を問い合わせることによりI(私が思う私)とme(人が思う私)の間で揺れ動き、自己を形成していく。
うん、チャーリー。
むずかしいよ……