変わる商店街

 これ、あちこちに貸して回ろうかな。

変わる商店街 (岩波新書)

変わる商店街 (岩波新書)

 ちなみに看板に偽りがある。
 「変わる商店街」というより、「変わるまちづくり」とでも言うべき内容。

 道路のプランターに、花を植える。
 あるいは、道路のレンガに市民ひとりひとりが自分の夢を書いて道路に敷く。
 撤退した大型店の跡地を公園にする。
 そういった、小さな市民による自主的なボランティア活動が、「まち」を再構成していっている。

 どちらの場合も、中心メンバーはだれかに頼まれてそれをはじめたわけではない。みな自分たちが住んでいて楽しいまちをつくりたいという想いから、各人が勝手にスタートしたものである。呼びかけに応えた市民たちも同様である。それは市民とまちの新たな関係づくりのはじまりであるといってよい。

はじめに、より

 商店街が一番輝いていたのは、昭和30年代だといわれる。
 高度経済成長の真っ只中。商店街でも、なんでもいいから店頭に並べておけば、とにかく売れた時代だ。
 なぜか。結論から言うと、他に店がなかったからだ。

 まず、「独占」について述べよう。山形県高畠町などは典型的なのだが、日本の小さな市長の商店(街)は、魚屋、肉屋、八百屋、豆腐屋、タバコ屋、酒屋、雑貨屋、洋品店といった商品別の専業店が、小さいながらも”フルセット”で存在するという形式が多かった。どの店も「地域独占」だったのである。お客のほうも主に徒歩と自転車で買い物をしていたので、せいぜい数キロが行動範囲だった。だから買い物をする上で消費者には選択の余地がなかった。品物がない以上、「高かろう、悪かろう」でもそれを求める以外になかったのだ。

 第7章 地域とともに生きる商店街、より

 そして、モータリゼーショーンとスーパーの登場で独占が崩れたとき、商店街の取った行動は、大型店に対する反対運動だった。

 日本の流通の歴史は大規模店舗と中小小売店の争いの歴史といってもよい。大規模店舗の肩を持つつもりはないが、中小小売業者も反対運動のエネルギーを商売に注いだほうがもっとよかったのではないかと思えるものがある。

 第3章 商店の盛衰と政策展開、より

 行政の保護政策も、全て裏目裏目に出る。中心市街地に大規模店舗の進出を制限した「大店法」により、大型店は中心市街地を追い出され、「郊外型大型店」を作るしかなくなった。また、大きな店舗が作れないので、小さな店舗でいろいろな商品を置く「コンビニ」を作った。これらが現在どうなったのかは、誰もが知っている。
 後に残ったのは、「地価が高く、土地が狭隘で、権利関係が複雑で、住民運動がうぜー中心市街地なんて、つかえねー」という認識だけだった。

 結論を先にいう。中心市街地などを代表とする商店街の衰退あるいは空洞化の原因の一つは、政策がなかったからではなく、逆にありすぎたからだと筆者は思っている。農業と同じように、政治が手厚くめんどうを見すぎたことが、一部の商業・商店街の足腰を弱くした。補助金政策ひとつとってもそうである。複雑すぎるので筆者にも全てを読み解けないが、商業への補助金の種類の多さには驚く以外にない。
(中略)
 しかし、そうした政策の積み重ねが、商店主たちのなかに、リスクは負わないでリターンのみを期待するという最悪の風潮を広げた側面があることは事実であったといってよい。

 第3章 商店の盛衰と政策展開、より

 そして、勝ち組を思われている大型店にも、衰退の兆しがある。アメリカでのウォルマートへの反対運動等もそうだ。この本には書いてないが、大規模店舗同士の熾烈な競争、人口減少・高齢化、過剰な床面積に対する維持費等もあるのではないだろうか。

 生き残り方は多様である。とにかく生き残ることが大切なのだ。
 ともあれ、武蔵小山の田中さんや東和の田中さんたちに共通するのは「個店、専門店の時代がやってきている」という認識だ。大型店はあきらかにピークアウトであり、その抜けた穴は個々の個店が埋めるのが理想的である。その個店が郊外店になるのか、中心市街地のお店になるのかが問われている。

 第7章 地域とともに生きる商店街、より

 地域活動、インターネット、SOHO、その他生き残るためのツールはたくさんあり、実績も出てきている。
 あとは、どうするか、なのかな。

 もう一度指摘するが、大型店がいけない、規制緩和が悪い、クルマ社会になったから、といった自分以外に原因があるとする姿勢は何も生み出さないだろう。なぜならそこには改めるべき自分はいないからだ。

 第5章 バーチャル商店と商店街、より