若者はなぜ3年で辞めるのか

 世代間格差、ここに極まれり。

若者はなぜ3年で辞めるのか? 年功序列が奪う日本の未来 (光文社新書)

若者はなぜ3年で辞めるのか? 年功序列が奪う日本の未来 (光文社新書)

 フリーター問題が社会現象となり、格差が論じられる中で、正社員の3割が3年で辞めていくこの若者殺しの時代。
 辞められる企業の論理としては、「最近の若者はわがままだ、忍耐が足りない」とか若者を非難する。
 しかし、筆者はそうではなく、ゾンビみたいな年功序列が若者の未来を奪っていると主張する。
 かつての企業の採用は「新卒・一括・ところてん」といわれ、若さとやる気だけある上に従順であたまはパーの若者を一括で採用し、企業の側で一方的に部署に振り分けていた。社会人としての素養は企業が育て、変な癖のついていない新人が扱いやすいということで求められた。
 しかし、時代は一変する。

「具体的にどんな仕事を希望しますか?」
「その仕事を通じて実現したい目標はなんですか?」
「希望職種にマッチした専門性は持っていますか?」

 そういったことに、きちんと答えられる人間でなければ採用されない。大きな声で「なんでもやります」と言えば採用された時代は今は昔だ。現代では、これらの質問にきちんと答を出せないと、企業の厳しい選考に採用されない。
 
 しかし、その難しい問題に答えられたとしても、
 採用された後には、その答えとは全く関係ない仕事しかさせてもらえないのだ。
 かなり高い確率で、一生涯。

 若いうちは低い賃金で苦労して、年を取ってからその分の報酬をもらうのが「年功序列」。このねずみ講じみたシステムは、経済成長を前提としていたが、それが止まれば上が詰まり、若者は少ないポストが空くのを待ちながら、一生低い賃金と下働きを強制される。

 「それでもいまの若者は忍耐力が足りない」という人間は、こう考えてみるといい。自身がせっかくいい大学を出て、有名企業に正社員として入社して、いざ配属先が「マックの店内でポテトを上げる仕事を向こう三〇年」だったとしたら、どういう気分になるのか。

 第1章 若者はなぜ3年で辞めるのか? より

 絶望

 企業の役員会で、または労働組合の総会で、そして国会の場でも、年長者たちは額を突き合せ、自分たちの既得権を守るために若者を切り捨てることを取り決めた。
(中略)
 だが、忘れてはならないのは、若者も先輩たち同様、ごくふつうの人間だということだ。生命力も気力も(そして忍耐力も)従来の世代よりひと回り強いスーパーマンぞろいならいざ知らず、ふつうの人間なら負担が増えた分、必ずどこかで手を抜く。
 もちろん、手を抜くのは会社での仕事ではなく、社会におけるもう一つの仕事だ。そう、それは次世代を作り育てるという、本来若者が持っている役割を放棄することだ。

 若い世代に「心配しなくても将来出世するから」と言って負担させる時代はとっくに終わっているのだ。

 第3章 若者にツケを回す国 より

 企業の新規採用抑制、国債発行、年金、保険、福祉政策、この国の年長者はどこまで既得権を保護する代わりに若者を殺して行くのだろうか。
 その「若者」とは、未だ生まれていない世代すら含まれるのだ。

 「若いうちは我慢して働け」と言う上司は、いわば若者をそそのかして人生を出資させているようなものだ。
 だが、若者の貢献の多くは、年金同様、自分たちの将来受け取る待遇のために積み立てられるのではなく、先輩方を養うために使われるのだ。
 勝者と敗者を生み出すという意味では成果主義と変わらないが、この場合、能力や実績ではなく年齢で差別化する分、年功序列のほうが非民主的だといえるかもしれない。
(中略)
 一つ言えるのは、踏み台になる人間に対し、嘘をつくのはよくないということだ。彼に公平な競争を勝ち抜く機械を与え、そのうえで敗れたのなら、取り分が少なくなってもやむをえない。
 だが、「大丈夫、いまはきついけど、将来は楽になるから」と騙してこき使い、人生の折り返し地点を過ぎたあたりで「ああ、自分は騙されたのか」と思い知らせるようなシステムは、一度ぶち壊してしまったほうがマシだろう。

 格差否定論者の言い分で最も違和感を覚えるのは、彼らが「同じ世代の格差」には鋭敏に反応する割に、(団塊団塊ジュニアなど)世代が異なるもの同士なら、どんなに格差があろうとほとんど無視するという点だろう。

 第4章 年功序列の光と影 より

 「定期昇給もない、かといって成果主義による抜擢もないでは、若者はやってられない」

 せめて、「もっとマシな義務を与えてくれ」