「宗教としてのバブル」

 人間の価値観は、その原体験に規定される。
 バブルで美味しい思いをした人は、その再来を望み、失われた十年で辛酸を舐めた人は、あの時代が二度と来ないように努力を重ねる。

 この筆者は、バブル期の土地神話や株価神話を、「必ずしも自明でない前提」として、バブル現象を宗教として定義して、あの時代をバブル教の陶酔的熱病(ユーフォリア)の産物としている。
 実態からかけ離れた価格が土地や株につき、それを担保として銀行から巨額の融資を引き出し、経済の実態のない財テクにつぎ込む。
 そういう時代があった。
 その後に、企業が無計画に首切りをしたり、銀行が企業に金を貸さずに国債を買いまくったり、政府が国債を発行しまくって乗数効果を考えずにばら撒きまくったり、その他諸々の時代が来ることになるのだが、それはまた別の話になる。
 バブルは高度経済成長期からの延長であり、バブル前とバブル後には思想の断絶がある。オイルショックは所詮「ショック」であり、「失われた十年」程の破壊はもたらさなかったのだ。
 そして、バブルから生じた「バブルマインド」は、バブルが終わってからも消えることは無く、既得権を持つものたちは相変わらずバブルマインドでその浪費を楽しみ、そのツケを全部後の世代に押し付けた。
 採用抑制、財政破綻、その他諸々。ただ生命活動をするだけでもコストのかかるこの時代、若者は薄着でガタガタ震えている。

 世代間不平等って奴だ。

 2007年問題団塊の世代が一斉退職すると、人口構成の関係上二本の社会は一気に若返る可能性がある。椅子取りゲームで退職数が多い分、新規採用も増え、ニート、フリーター問題も一定のめどがつく見通しがある。

 バブルを知らない子供たちが、バブル世代全体を押しのけて、これからの日本社会をリードしていくためには、ヴィジョンを提示できなければならない。そのヴィジョンに対して、バブル世代は批判もするだろうが、もしそこにこれまでの経済主義や私生活主義とは異なる新たな価値観の萌芽があったとしたら、それを無視することはできないだろう。

 第5章 宗教としてのバブルを脱却するために、より

 バブルや好景気には爆発的な力がある。それは、普通なら到底なしえないと思えることを可能にしている。だが、バブルや好景気の到来をあてにして、それにすべてを委ねてしまうことは、愚かなことである。時代状況がどうあろうとも変わらない思想や価値観の方が、時代に依存するものよりもはるかに永続性を持つはずだ。

第5章 宗教としてのバブルを脱却するために、より

 普通でいいよ。普通で。